審判〈上〉 (1979年) (集英社文庫)
によって 堀田 善衛
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審判〈上〉 (1979年) (集英社文庫)の詳細
本のタイトル : 審判〈上〉 (1979年) (集英社文庫)
作者 : 堀田 善衛
発売日 : 1979/12
カテゴリ : 本
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私が高校生の時に、偶然、雑誌で、この小説の一部を読み、その登場人物の幾人かに魅かれて、ぜひ一度通読したいと、思っていた。今回、このかなり長い小説を通読でき、一つ課題が果たせたと感じている。魅かれた登場人物3人。① 恭助:太平洋戦争時に、中国大陸の戦場で経験したことに、現在に至るまで精神的に回復できずにいる。② ポール・リボート:アメリカが、広島・長崎に原爆を投下した際、実際に投下した軍用機に搭乗してはいなかったが、それらの機を先導する機のパイロットで、また投下後の状況を撮影する任務を持っていた。彼も、このことを、精神的な負荷として、持ち続けている。③ 郁子:90歳を超える女性で、自由民権運動や明治から大正時代の女性解放運動の闘士としての経験を持つ。恭助は、実際に殺人を行い、ポールは直接の殺人は行っていないが、間接的な大量殺人を行った、という意識がある。この小説では、これらの精神的なダメージから回復できない両人の、戦後におけるやや正常でない行為を描写しており、このような戦時に受けた精神的ダメージから、いかなる方法で回復できるか、あるいは回復できないのか、がこの小説のポイントの一つである。ここで、堀田氏は、この小説の主題である、人間の裁きの問題を書き、人間には人間を裁く権利はあるのか、と問いかけ、東京裁判を例にとって、「裁いた人間が、裁かれた人間によって、裁かれる」と、興味深いことを書かれている。この点について、堀田氏の考えられていることをもっと展開して欲しかったが、それがなく終わったのは残念であった。また、この小説の書かれた当時は、60年安保反対の運動が亢かまっていた頃であった。私は、以前から、この国民運動と、明治の自由民権運動との関わりに関心を持っていた。堀田氏は、郁子という女性の言葉を借りて、反権力の民衆運動は、いつの時代でも、本質的に同一である、と述べている。この小説を読み終えて、高校時代に、私は、この小説に何を期待したのか、と考えた。というのも、はっきり言って、やや期待外れであったからである。しかし、人を裁くという問題では、読んでよかったと感じている。 この、人を裁くという問題に関して、最近、印象に残ったことが1件あった。それは、「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝死刑囚が、死刑判決確定後、43年間死刑囚として収監され、刑が執行されることなく、89歳で獄死した事件である。この事件については、私は、ほとんど知らなかった。しかし、43年間死刑囚のままでいた人が存在した事実に驚き、インターネットで、この件に関する情報を見た。膨大な量の情報が存在するので、そのすべてを見たわけではもちろんないが、私が見た限りでは、この奥西死刑囚は、無実の罪を着せられた冤罪事件という印象を持った。この事件を担当した地元警察が、奥西氏を犯人と断定し、事件のあった葛生地区の住民も、警察のシナリオに従って、そろって証言を変えていく、という経過をとった。第一審は、無罪であったが、第二審では、一転して、死刑判決が出され、最高裁で確定することになった。奥西氏の無罪を立証する証拠が出ても、再審で無罪判決を出さない一因は、警察、検察、裁判所の持つ、特有の体質があった、と私の見た記録のいくつかは指摘しており、私も納得させられると同時に、そのような体質のために、43年間も死刑囚として存在せざるを得なかった奥西氏にとっては、言語道断であったと思う。ネットでのデータの一つに、再審で無罪になった元死刑囚の、死刑囚としての獄中体験を記録した映像があった。死刑が執行される日は、その早朝、刑務所の職員の足音が、その死刑囚の前で止まるそうで、毎朝、自分の独房の前で止まるのではないかという恐怖感と、そうではなかった時の安堵感との繰り返しで、精神的にこたえた、と述べられていた。これを、長期間(死去する前は、医療刑務所に移されていた)経験された奥西氏の心境は、無念であったであろう、と思わざるを得なかった。
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